健康づくり

健康づくり 健康を守り育てるためには、
(1)正しい栄養
(2)適度な運動
(3)十分? 生涯にわたって動くこころとからだをつくり、守るための支援をします。

03/06/2026

「身体感覚」というと皆さんはどのように理解されるでしょうか。一般には、いわゆる五感を含む感覚すべてを指すものと理解されることが多いようです。しかし、生理学では五感のような外界からの感覚以外で筋肉や関節の動きの感覚を身体感覚と言います。筋肉が緊張した状態や弛緩した状態の感覚です。
身体感覚は、最も根源的な感覚です。環境との関係の中で、環境に適応するためには、動きに関する何らかのフィードバックがなければなりません。したがって、心にかかわる問題について考察するときにも、身体感覚が重要な役割をもちます。
からだの状態は心の状態に深くかかわりをもっています。たとえば、突然蛇を見たときに心拍数が多くなることからも分かるように恐怖心と筋肉の緊張とは密接に関連しています。ここに「心身一如」の現象が見られます。
人間の動きには、意志によって制御できる随意性と、反射的で生得的な不随意性と二つの性質があります。随意性とは、わたしの意のままにできること、不随意性とは、わたしの意のままにならないことを言います。これは分かりやすい分類ですが、少し単純すぎるところがあります。動きには反射的でもあり、意志的にも制御できるといった両方の性質をもつものがあります。たとえば、呼吸です。睡眠中は反射的に呼吸しています。一方深呼吸をするときは、意志的に呼吸しています。このように呼吸は異なる二つの反応をしています。したがって、このような性質をもった動きは、単純に随意性や不随意性という分類を適用するわけにはいきません。それ以上に、人間のからだの働きというのは、実はそのほとんどが不随意性で無意識的に行われています。自分のからだは自分の思い通りにならないというのが事実です。その事実から目を背けることはできません。その事実を深く理解し、受け容れて生きることこそがからだと心を健康に保つ秘訣なのです。
からだが健全でなければ心の安寧(あんねい)を得ることなどできないでしょう。人間の意志的な努力を手放し、からだと心を自ずからなる働きに任せておおらかに生きることで、そこから起ち上がってくるものを受け容れることのできる能力が培われてくると思います。
「そうする」から、「そうなる」という発酵のような進化は、「自分のからだは意志的にコントロールできない」という深い気づきがなければ起こらないでしょう。

14/05/2026

東洋思想は、自然界に存在するあらゆるものは「陰」と「陽」に分けられると説いています。
陰陽論の起源は古代中国ではじまったものと思われます。約三千五百年前の文献に明らかです。
陰陽とは、男と女、昼と夜、生と死など両者を対立する関係とみます。しかし、どちらか一方だけでは成立せず、互いに切り離すことができない関係であるという考え方をもっています。
陰陽のなりたちは、渾沌たる一元からはじまり、それが陽と陰に分かれ、陽を天となし、陰を地となします。陽と陰が極限にいたり地の気が上って雲となり、天の気は下って雨となり、天地が再び交流合体して万物を生ずるというのが陰陽論の公理となっているのです。
東洋医学はこの陰陽論に立脚しています。心身の陰陽のバランスが保たれていれば健康、崩れていれば病気と考えます。
たとえば、陰の力が足りない場合は潤いが不足します。陽の力が足りない場合は冷えの症状がでてきます。
足りないものを補い、過剰なものは排泄することでバランスを調えます。それによってカラダが元の機能を回復するような治療を行います。
東洋医学では、カラダの一部に表れた異常をカラダ全体の問題ととらえます。病気の根本の要因は、多くの場合、異常が見られる場所自体にあるわけではありません。「なんとなくいつもと違う」「食欲がない」「よく眠れない」などといった変調はその部分だけの問題ではなく、心も含めた全体的なものです。
近代科学は物質主義の上に成り立つものですから、個々の事実を分析して解明することには優れていますが、複合的なものを総合的に捉えようとすると相互の関聯がつかず正しく理解するのは容易なことではないでしょう。これが近代科学の大きな欠陥になっています。
規則正しい生活習慣をこころがけることも病気が本格的に発症する前の「未病」を治すことになります。東洋医学は予防医学なのです。

30/04/2026

今日の生活習慣は肩こりや腰痛をおこしやすいようになっています。たとえば、机に向かって猫背で首が前に傾いた姿勢を長く続けると首や肩の筋肉が緊張します。あるいは、腕を宙に浮かせた姿勢をつづけるために、僧帽筋を連続的に緊張させて肩こりをおこします。
腰痛も、脊柱起立筋などの筋肉の緊張が長く続くと、血行が悪くなって、老廃物がたまり、そのまわりの神経を刺激して痛みをおこすのです。また、慢性の腰痛は、自律神経の失調のために起こりやすくなります。精神的ストレスが重なると無意識的に筋肉が緊張するものです。
たえず緊張している筋肉は硬くなってしまいます。その結果筋肉内部の圧力が高まり、筋肉の中を走っている血管を圧迫するために、血液の流れが悪くなります。血行が悪くなると酸素の供給が不十分になって、筋肉の収縮に必要とされるブドウ糖の不完全燃焼をおこします。さらにこの筋肉の緊張状態を長引かせておくとそこに炎症がおこり、痛みにまで発展していくのです。
筋肉をゆるやかに伸ばすことで多くの腰痛、肩こりは治療できるし、予防もできます。
腰痛、肩こりの原因となるものに次のようなことが考えられます。
①不自然な姿勢
ふつう骨盤は前方に約30度傾いています。その傾きが大きくなって脊柱前彎(せきちゅうぜんわん)という変形を起こし、腰に痛みをもたらすことがあります。
②運動不足
歩かないと足腰の筋肉が弱くなると同時に関節の可動域も小さくなっていきます。関節に接している筋肉や靱帯などの結合組織が正常に働かなくなれば関節の可動域は限定されてしまいます。その結果、足腰を支える脊柱起立筋への負担は大きくなります。健康を維持するためには関節の可動域を大きく保つことが大切です。また、運動不足によって血行が悪くなることも多くの人は気づいていません。
③精神的緊張
筋肉の興奮を大脳に伝える神経を知覚神経と呼びます。いつも神経をはりつめている生活では、首や肩の筋肉は相当緊張するものです。私たちの気持をイライラさせているのは、知覚神経がいつも興奮させられるからです。その興奮が脳に送られてイライラを増幅します。
ほとんどの腰痛、肩こりは筋肉をゆるやかに伸ばすことによって解消されます。なぜならば、それらの共通した問題点は、柔軟性の欠如、筋の過緊張といったものだからです。

17/04/2026

皆さんは、運動が健康にいいということはご存知だと思いますが、ではなぜ運動は健康にいいのでしょうか。
カラダを動かすことはエネルギーを消費することだというのは、カラダを動かした後にお腹が減るので経験的にわかります。では、エネルギーを取り入れるのではなく、エネルギーを消費する運動がなぜ健康にいいのでしょうか。それは「エネルギーを消費する過程がエネルギーを供給する過程を変える」からなのです。
どういうことかと言いますと、カラダの中に備蓄している限りあるエネルギーから大量のエネルギーを利用できるようにするためにはエネルギー供給システムを効率化する必要がありますが、エネルギーの消費過程そのものがそれを行っているというわけです。これこそが生命が環境の変化に適応するために獲得した適応能力であります。
カラダは繰り返しエネルギーを消費することによってエネルギー供給システムを生命維持に適したシステムに強化していくのです。
たとえば、人間は高所にも馴化します。二、三週間のうちに、低地と同じように活発に歩き、走るようになります。酸素が希薄な高所に長期間滞在したときは血液の中に酸化ヘモグロビンとして存在しているヘモグロビンと酸素との結合力を弱め、少量の血液で組織が必要とする大量の酸素を運搬できるように適応する事実があります。
動物はカラダを動かさなければ、内部環境の「恒常性」を健全に維持できないほどに、運動が生命の維持に不可欠のものとして運命づけられています。
動物は、食物を採取したり、害敵から身を守ったり、安全を確保するために「移動」という手段を用いることができますが、人間が他の動物と違うのは、単に「移動」を適応のための手段として用いるだけでなく、この適応能力を高めることができることを知っています。またこれをうまく活用することができます。
私たちは、この人間が本来もっている優れた適応能力を善用すべきでしょう。社会的使命を果たすためにも適応能力を高めることが、その第一歩になります。

02/04/2026

私たちは、真の自己を確立するために、何をなすべきか、何をなさざるべきかを、正しく判断し、自由な意志をもって実践しようとするのですが、しばしば思うにまかせぬ自分自身に遭遇することがあります。
善を欲しながら、これを行うことなく、かえって欲しないところの悪を行う自分自身を見出し、大きな疑問を抱きます。人間には果たして自由意志などというものがあるのだろうか、という疑問です。
仏教経典の中に「アーラヤ」という言葉が記されています。「アーラヤ」という言葉は古代インドの言語サンスクリットで、「欲望」もしくは「貪欲」を意味していると考えられています。
中国の学僧たちがこの「アーラヤ」の音をそのままに写して「阿頼耶」と翻訳しました。
いわゆる唯識学派の学説では、煩悩というものは、この「阿頼耶」によって生じるのだといいます。
見たこと、聞いたこと、考えたことが自動的に処理され、自覚的に意識にのぼらないうちに私たちの行為を左右するのです。
今日では、人間の意識下の深いところに蔵されているものを明らかにしようとする深層心理学的な研究が進められています。
フロイト(1856~1939)やユング(1875~1961)が無意識の心の存在を提唱したのは70年ほど前のことですが、心の問題を深く考察してきた仏教では1600年前にすでにその存在を説いています。
草木は、時がきて芽を生じ、花を開き、実を結びます。私たちは、ともすればそのいとなみに眼をうばわれていますが、それらの現象は地下の眼に見えないところに存在する種子に本源があります。それと同じように、人間の意識、思考は、私たちの意識下の深いところに蔵されている言葉では表現のしようのないものによって生じてくるのです。それが「阿頼耶」と呼ばれるもののいとなみなのです。
私たちはどのように自分が行動しているか自分の行動に深く注意を払う必要があります。
仏教では、まず心をととのえて、それにしたがって物言い、行うがよいとします。自分の心を鎮め、慎重に行動することは、いずれは必ずよい結果をもたらすはずです。自分の中に知りえない何者かがあって、この混沌としたものが種子となって花を咲かせるのです。

20/03/2026

私たちは普段、「幸福」に到達するための「道」があると考えています。「今日私たちは苦労を受け容れよう。しかし、明日は豊かな暮らしが訪れる」というとき、幸福は「目的」であり、道は「手段」です。「目的」と「手段」とに分けて考えると幸福から遠ざかってしまうことにはならないでしょうか。
ベトナム戦争のさなか停戦を訴えて活動した禅僧ティク・ナット・ハンは、
「幸福への道はない。幸福は道である」
といいました。
平和へのプロセスはやはり平和でなければなりません。平和の名において暴力を用いるのはまちがいです。もし手段が平和的なものでないならば、平和はありえません。
平和のためと言いながら爆弾を投下したり、銃で人を撃つならば、それはまちがいです。手段が暴力的であれば、結果も暴力的でしかありません。平和への道はその一歩一歩が平和でなければなりません。
それと同様に、幸福であり続けるために苦しまなければならないとすれば、それもまたまちがいです。幸福への道の一歩一歩が幸福でなければなりません。目的と手段はひとつなのです。したがって幸福への道はすなわち幸福だというのです。
ティク・ナット・ハンと相通じることを、曹洞宗の開祖道元禅師は次のように述べています。
「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなわち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり」
修行と悟りは別々のものだと思うのは、仏教以外の見解だというのです。仏法では、修行と悟りはひとつだと道元は説いています。
道元の教えは、目的と手段とに分けて考えることの弊害に気づかせてくれます。「目的」と「手段」とに分けて考えることは純粋であるべき「修行」を人間の欲望で汚していることになります。
何かのためにその行為を行うのではなく、その行為を行うこと自体に価値があり、意味があります。たとえば、楽器の演奏やダンスはそれ自体愉しいので演奏するし、踊ります。
その人の心の本性に調和していることで、なおかつ、遂行できる能力を具えているときには、緊張や疲労を生み出すことは決してなく、自然に行動自体が喜びとなるのです。
喜びをもって行動ができることはとても大切です。なぜなら、その行動に知性や創造性を最高に発揮できるからです。

05/03/2026

人間は他の動物と違って二本足で立っています。これは四本足に比べたら不安定で、人間は、常にバランスをとっていなければならない存在だと言えます。
人間が直立するためには、関節を固定して常に姿勢を安定させた状態に保たなければなりませんが、そのように意識的に筋肉を緊張させたり、弛緩させることができません。これでは姿勢を一定に保つということは不可能でしょう。ところがそれができるのは無意識にカラダをコントロールする働きがあるからなのです。それが姿勢反射というしくみです。
私たちは常にカラダのバランスをとっているのですが、そのことに気づきません。姿勢反射というしくみは、たとえば猫を空中に放り投げると、すばやく立直って四肢で安全に着地します。これが姿勢反射です。姿勢の保持は無意識的にスポーツや日常の動作の中にもたえず現れています。
姿勢反射は、筋からの張力の変化に応じて情報が反射中枢に伝達され、また三半規管から発せられたカラダの揺らぎについての情報や、その他視覚や深部感覚の情報を総合して、目的に適うようにバランスよく調節されています。とくに深部感覚は姿勢保持にとって決定的な役割をもっています。
動きについてはどうでしょうか。歩くとか、坐る、立つといった運動についてはわたしたちはふつう意のままにコントロールできるので随意的だと考えます。しかし、事実はどうもそうではないようで随意的でもあるし、不随意的でもあると考えたほうがいいようです。
意識的には何かの動作を遂行しようとしてもカラダは、無意識的にバランスが崩れないように指令を出します。そのため動作そのものの精度を低下させてしまうことがあります。何かをやろうとすれば、まずバランスをとることが最優先なのです。
何かをやろうとするときにはついついカラダをコントロールしようと頑張ってしまいます。それでは不自然でぎこちないことになってしまいます。不随意的の働きを受け容れることが必要で、そのためにはカラダをコントロールしようとする意識を手放し、私たちの中の自然の働きにまかせてしまうことがとても重要です。
私が「そうする」のではなく、自ずと「そうなる」のです。トップアスリートと呼ばれるアスリートが神がかり的なすばらしいプレーをして観客に感動をもたらすのもそういうときではないでしょうか。

21/02/2026

わが国にお茶が渡来したのは、鎌倉時代に栄西(ようさい)禅師が、中国から帰朝の節、茶の種を持ち帰り、肥前国の背振山にそれを蒔き、また京都栂尾の明惠上人に贈ったことにさかのぼります。その後明惠上人が宇治の里人に苗を与え盛んに栽培されるようになりました。
栄西(ようさい)禅師は、「茶は養生の仙薬、延齢の妙術なり」(『喫茶養生記』)と喫茶の薬用価値を説いています。
茶の湯の起源は、禅僧たちの始めた儀式でした。独立した茶席が成立しない初期の室町時代には、広い書院で茶を点(た)てました。簡素な草庵の茶の湯は村田珠光(むらたしゅこう)によって創案されたのがはじまりです。それまでの茶の湯は、書院の茶の湯で、茶碗その他のめずらしい道具を鑑賞することが主となっていました。純潔な小座敷の茶の湯は、千利休によって大成されました。草庵の茶の湯は道具の鑑賞が主ではなく、どのようにすれば、人に喜んでもらえるか、ということです。
「わび茶」に関して書きのこされている文献はごくわずかですが、泉州堺の僧の南坊宗啓が利休の語った話を書きとめた『南方録』には、
「小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て修行得道することなり。家居の結構、食事の珍味を楽しみとするは俗世の事なり。家はもらぬほど、食事は飢えぬほどにてたることなり」
とあり、仏法を学び、仏法にかなうように修行することが肝要であるということが分かります。
利休の孫の千宗旦(そうたん)の歌に、

茶の湯とは心につたえ眼につたえ耳につたえて一筆もなし

というのがあります。この和歌は「文章にも言葉にも言い表わせない」わび茶の精神をよく伝えるものとして有名です。
また、茶の湯の世界では椿にまつわる次の逸話が伝えられています。早咲きの椿が咲いたので飛鳥寺の住職が宗旦(そうたん)のところへ使いの者に届けさせました。ところが、使いの者が途中で椿を散らしてしまいました。やむなく落ちた椿の花を拾い、枝に添えて届けました。
宗旦はねんごろにこれを受けとり、掛け花入れに枝を入れ、その下に落ちた風情に花を置き、使いの者の労をねぎらい、茶をもてなされたといいます。
「宗旦椿」として語りつがれています。

05/02/2026

食物、睡眠、身体活動など生活様式が変わると健康によい影響を与えることがあります。環境が変化すると、新しい状況に対応しようとして、直ちに生理的、精神的活動が活発になります。
環境の変化に対する適応反応はどのような形で現れるのでしょうか。反応の仕方は、各個人の特性に応じてさまざまです。ある者は闘争することによって適応します。またある者はそれから逃避することによって適応しようとします。
カラダは活力を増し、困難に打ち勝つための大きな力を得ます。適応力によって人間は、逆境にも頑強に対応することができます。カラダは外界の変化には全器官をあげて活動を始め、変化に対応するのです。適応力は組織およびカラダ全体がもっているばかりでなく、組織を構成しているそれぞれの細胞も全体のために働くように思われます。それは暑さ、寒さへの抵抗力も同じです。ところが、私たち現代人は、祖父母の生きていた時代とは違って寒さにも、暑さにも、エアコンのある部屋やセントラル・ヒーティングの家に閉じこもっている時は、生得の適応能力は休止状態のままです。
私たちは、現代文明が作り出した生活様式によって環境に適応しているので、もはや生理機能に頼ることはないのです。
現代生活は、身体活動の機会が極端に少なくなっています。筋肉を使う仕事は機械にとって代わられ、その結果それとは気づかずに身体活動を抑制してしまっています。
このような現代生活のスタイルは、真っ直ぐ退化へとつながります。脳も筋肉と同じように、訓練が不足すると退化します。活動が十分でないと、退化という形で適応するのです。適応力のような重要な機能は、使わずにおけば必ず肉体と精神の退化という代償を支払わねばならなくなります。
肉体と精神の発達には、筋肉を運動で鍛えるのと同様、訓練が必要なのです。筋肉は活動すればするほど発達します。活動すると消耗もしますが、発達もします。生理的機能も、精神的機能も、活動すれば増進するということは疑いようのない基本的な事実です。
適応力は、必要でない時にはなしですますことができるようなものではありません。単に病気の原因から身を守るだけでなく、適応能力を高めるようにこころがけましょう。

22/01/2026

現代人は頭で考えたことを知恵と思っているようです。昔の人は頭で考えたことを超えた深い知恵があることを知っていたのですが、残念ながら、そういう価値観が失われています。
室町時代の高僧夢窓国師は、「本分の大智」という頭で考えたことを超えた知恵についてあえて言及しています。本分の大智は、身心の中にも、身心の外にもなく、山川草木すべてこの中から生じたということで、仮に本分の大智と名づけられているのだといいます。
また、夢窓国師は、その本分の大智は人びとに生来具わっているけれども、知恵に妨げられて現れないとも説いています。
知恵が修行の道の助けとはならないばかりか、かえって妨げとなるというのは、どういうことなのでしょうか。
世の中の一般の人はただ単に愚かさを改めることを知恵と思っているが、それは真実の知恵とはいえないということです。書物などの文字や言句に随って理解したことは真理の探究の妨げとなって、たとえば酒に酔った人のように妄想を見ることになります。
したがって、真理を探究するには、自己がさまざまのはかりごとをめぐらして得た知恵をすべて捨てなければなりません。知恵を手放なせば、かならず本分の大智が現れると説いています。
夢窓国師は、知恵が修道の助けとはならずに妨げとなることを、「筏の喩(たと)え」という教えをもって示されています。
旅人が大きな河を見て、向こう岸に渡ろうと思い、筏を作り、その筏によって河の向こう岸に無事着くことができました。そこで旅人が、「この筏は大変役に立ったから、肩に担いで行こう」と思ったとしたら、それは正しいことと言えるか、というお釈迦さまの問いかけです。
筏が大切なのは大河をわたり彼岸に至るためです。たとえこの筏がどんなに役に立ったとしても、愛着してこれを捨てないのは、賢明なこととはいえないでしょう。
筏は混迷の大河をわたり彼岸に至る知恵を意味します。愚人よりは優れているといえますが、一時的に役に立つだけのことです。知恵を捨て、自己の未熟さを自覚して坐禅などの修行に励めば、やがて時機が熟して本分の大智が現れるのだといいます。
知識や言説を好んで、本分の大智を求めなければ我見にとらわれてしまって他人よりも優れていると信じ慢心を起こします。本分の大智にかなう人は慢心を起こすこともありません。
知恵を得たという思いもなく、怠惰の心も生じなければ障害は自ずから消滅するでしょう。

住所

福岡県行橋市行事5丁目5/3
Yukuhashi-shi, Fukuoka

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